私も10歳となりました。私の少年時代、学校から帰りランドセルを置き、友達と公園でビー玉遊び、松山城へ登り探検して見たり、ボール遊びしたり楽しかった。時たま、いたずらをして近所のカミナリ親父から叱られることもありました。

昭和39年(1964年) 日本が活気に満ちた年でした。東海道新幹線が開通したりテレビがカラーテレビになったり子供心にすごい時代になったなあと感じていました。東京オリンピックに向けて凄いスピードで物事が動いているのも感じました。今でも、頭に残っている歌があります。三波春夫の「東京五輪音頭」です。

今でも聞くと懐かしいです。街の商店街に行くと色んな所から聞こえていました。

東京オリンピックの開催、それは日本国民が待ち望んだ一大イベントでした。

高度経済成長期は、1955年~1973年までの19年間を指します。日本経済は、年平均でも10%もの成長を続けました。
1960年、池田勇人内閣は、翌1961年4月からの10年間で国民総生産(GNP)を2倍以上に引き上げ、西欧諸国並みの生活水準と完全雇用の実現を目標とする「所得倍増計画」を発表しました。所得倍増計画は1964年秋に開催される東京オリンピックへの特需を迎えました。
名神高速道路(1963年7月開業)や東海道新幹線(1964年10月開業)といった大都市間の高速交通網、首都高速道路や阪神高速道路も整備されました。

東海道新幹線 開業、夢の列車であり新幹線にいつかは乗って見たいなあと子供心にあこがれを抱いていました。夢は新幹線の運転手が良いと思っていました。

ちょっと東海道新幹線 開業など新幹線の雄姿を見てみましょう。

東海道新幹線が開通するまで、東京・新大阪間は在来線特急で約6時間30分かかっていました。それが、東海道新幹線の開業時には東京・新大阪間が約4時間に短縮。最高速度は、当時の世界最高速度 210km/hでした。これは、やはり驚異的でした。

この頃は、私は、何でも出来る大人に早くなりたいなあと思っていました。友達と話をしても夢はでっかく持ってましたね。今、思えば夢を追い求めるだけで勉強はしませんでしたが・・・でも、未来は技術が発達してすごい世の中になるなあと感じていました。

また、早く大人になればオリンピック選手に成れるかもしれないとも思ってました。

昭和39年(1964年) 10月10日 東京オリンピック開会式。テレビ中継を食い入るように見ました。我が家では、まだ白黒テレビでした。いつから、カラーテレビが見れたのか記憶がありません。

今でも記憶に残るのが作曲者:古関裕而さんの「オリンピック・マーチ」です。
これほど、1964年 東京オリンピック開会式を象徴する音楽はないと思います。
それほど印象に残っています。

https://youtu.be/NdSAFFf5gTI

東京オリンピックが開催されると、みんなテレビに釘付けとなっていました。

特に、「東洋の魔女」が金メダルに輝いたソ連戦のテレビ視聴率は66.8%を記録し、この数字は、スポーツ中継の”史上最高記録”として令和の今も破られていません。

当時の試合などを映像で見てみましょう。シーソーゲームでちょっとトイレも我慢してた。
ビデオなどないから決着がつくまでテレビに釘付けだった。

当時の流行語を並べるだけで一文が出来てしまった。
「鬼の大松」と呼ばれ、「黙ってオレについてこい!」の「スパルタ練習」で「回転レシーブ」を編み出し、「東洋の魔女」を育て金メダルを獲った。

日本中が熱狂した東洋の魔女の試合でした。感動したぞー!

五輪の翌年、監督の大松博文はニチボー貝塚を退社。その後は、選手たちの結婚相手探しに奔走するなど、教え子たちとの交流が続きました。魔女たちのその後に最も腐心したのが、監督の大松だった。1968年には参議院選挙に立候補し、魔女たちも応援に駆けつけ、当選を果たしています。1978年に急逝。神奈川県鎌倉市に建つ大松の墓石には、バレーボール型の石碑に「根性」の文字が刻まれています。

五輪後、後を追うように魔女たちも大半が引退・退社した。チームの中心的存在だった名セッター河西昌枝は、五輪翌年にニチボーを退社しました。同年に陸上自衛隊の中村和夫に二尉と結婚し、3人の子宝に恵まれています。左のアタッカー・宮本恵美子も翌年に結婚。茨木県日立市でママさんバレーの指導などに従事しました。

日本中が熱狂した「東洋の魔女」の活躍は、アニメ「アタックNo.1」やドラマ「サインはV」などの作品を生み、空前のバレーボールブームに沸きました。当時、ママさんバレーは町内対抗試合など夜も学校の体育館で練習していた光景を思い出します。お母さんがママさんバレーに打ち込み過ぎて、子供が家事をする家庭もありました。でもこの時代、近所の人が助けてくれたり人との和があったように感じます。

その後も「東洋の魔女」の話は、続きます。

2021年11月、1964年の東京オリンピックで金メダルに輝いた女子バレーボールチームを追ったドキュメンタリー映画「東洋の魔女」の公開に先立ち、13日に横浜市内で行われた「フランス映画祭2021横浜」で日本初上映されました。

57年もの時を経てのドキュメンタリー映画、それもフランス人の映画監督による撮影で興味深いものでした。

上映後、金メダリストであり、「東洋の魔女」の元メンバー、千葉勝美(旧姓:松村)さん77歳、田村洋子(旧姓:篠﨑)さん76歳、中島百合子(旧姓:半田)さん81歳、神田妙子(旧姓:松村)さん79歳の4人が登壇。同作について思いを語りました。

神田さんは感動のあまり涙ながらに「あれから57年後の今日、すごく幸せに思います。フランスの監督さんが、私達のために記録映画を作ってくれて、本当に感動いたしました」と感想を述べ「あの時代が一番楽しかった。バレーのことだけを考えていた。動いている大松先生やみんなに会えたことがうれしかった」と語り舞台あいさつを締めくくっています。

日本が生んだ「東洋の魔女」女子バレーボールの闘魂は、現在の日本の女子バレーボールに引継がれています。

1964年 東京オリンピック以降、発展を遂げた団体競技があります。
それがサッカーです。

1964年 東京オリンピックでサッカーのFWとして出場し、Jリーグ初代チェアマンの川渕三郎さんが当時を語っています。

当時サッカーは、人気が薄い競技でした。当時のサッカー選手はみな、東京オリンピックをきっかけにサッカーという競技を世界レベル近くまで高め、日本の中でメジャーな競技にしたいと思っていました。

東京オリンピックを目指して強化を図るため外国人のコーチを置くこととなり、その後日本サッカーの父と呼ばれるようになるデッドマール・クラマーと1960年の夏にドイツで初めて会いました。それからの4年間は日本のサッカーの歴史の中で一挙に成長した時でした。正しい基本技術を教わることから始まり、4年かかって東京大会でアルゼンチンに勝ってベスト8に残り、その遺産がメキシコ大会の銅メダルにつながりました。クラマーコーチの指導はすべて具体的で、基本に忠実で的確でした。本当に日本にとって素晴らしい指導者で画期的な影響を日本にもたらしました。

東京オリンピックの開催は日本のサッカーのスタートといえます。

以後、サッカーは日本において野球に次ぐ人気スポーツとなっていきました。

1964年 東京オリンピックで私の脳裏に深く刻まれているのが、マラソンの円谷幸吉 選手です。

アベベの余裕があるゴールを見て、超人だと子供心に感じました。42.195㎞走ったあと、ストレッチ体操してるとは・・・日本の円谷選手は、自己ベスト2時間16分22.8秒で3位となり、銅メダルを獲得しました。これは東京オリンピックで日本が陸上競技において獲得した唯一のメダルとなりました。また、銅メダルではあったものの、国立競技場で日の丸が掲揚されたのも円谷選手のみでした。

円谷選手の走りは、いつも精一杯でした。真っすぐと前を向き、常に力を出し切るその姿は、彼の生き方そのものでした。

昭和39年(1964年)10月24日、東京オリンピックの閉会式が国立競技場で行われました。入場行進が終わってからオリンピック憲章に従い、オリンピック発祥の地ギリシャ・日本・次回開催国メキシコの国旗が国歌の演奏とともに掲揚され、大会組織委員会会長の安川第五郎の挨拶、そして、JOC会長のアベリー・ブランデージが閉会の宣言をし、東京オリンピック賛歌の合唱とともに聖火が静かに消えていき幕を閉じました。

1964年 東京オリンピックは、戦後の荒廃から立ち直り、高度経済成長期に入った日本人に勇気を与えました。選手たちの活躍に「世界に追いつけ、追い越せ」という自らの思いを投影し熱狂した大会でした。この大会の様子は、オリンピック初の衛星中継で世界中に放映され、国内外に「日本の復興」を強く印象付けるイベントとなりました。

また、高度経済成長中の豊かさを皆で享受し始めた時代でした。
活気があり、エネルギーがあふれ出ている時代でもありました。

最後に、1960年~1970年の東京の日常生活の映像をご覧下さい。

 

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yaruzou55

2018年1月、地方銀行を63歳にて退職。 後の人生を面白おかしく生きるために、ちょっぴり早いサンデー毎日の生活に突入。 これからの生活で気が付いたこと、感じたことを書き留めるためブログを始めることにしました。(^-^)