元号は、天皇陛下の在位によって名称が変わりますが、昭和が続いていると仮定すれば、今年は昭和100年になります。100年という区切りのいい年なので、この100年が日本にとってどういう時代だったのかを振り返ってみました。

第1章 1926年から1945年迄は、戦争の時代でした。

大正時代末期から昭和初期にかけて、日本は世界恐慌 (1929年) などの影響を受け、深刻な経済不況に陥りました。失業や貧困が広がる中、「海外に進出して資源や市場を確保しなければ生き残れない」という考えが強まりました。
昭和初期には、軍部が政治に強い影響力を持つようになりました。政党政治が機能しなくなり、軍部によるクーデター未遂や暗殺事件 (5・15事件、 2・26事件) が続き、次第に「軍国主義」へと傾いて行きました。
日本は石油や鉄、ゴムなどの資源をほとんど持たず、資源の確保は国家の死活問題でした。そのため、中国東北部 (満州) への進出を強行し,、1931年には「満州事変」が起きました。
以後、日本は中国に満洲国を建国し、植民地化して行きます。 1937年、北京郊外の盧溝橋付近で発砲があったとして、日本軍と中国軍が衝突しました。盧溝橋事件をきっかけに、日本と中国との本格的な戦争、日中戦争が始まりました。
アジアに勢力を広げようとする日本に対し、アメリカやイギリスなどの欧米諸国は強い警戒感を持ちました。日本はそれに対抗しようとし、「大東亜共栄圏」というスローガンのもと、アジアの支配を正当化して行きました。
1941年、アメリカによる経済制裁 (特に石油の禁輸) により、日本が「このままでは国家が維持できない」と判断し、1941年に真珠湾攻撃を行ってアメリカと開戦。これが太平洋戦争の始まりとなりました。

「太平洋戦争は、本当に防ぐことができなかったのか」という問題については、さまざまな見解があります。

防ぐことができたという見解について、日本はアメリカやイギリスとの外交交渉において、もっと柔軟な対応ができたとする説。満州事変や日中戦争の拡大を抑え、国際連盟などとの協調路線を維持していれば戦争を避けられた可能性もある。南方資源を武力で奪おうとせず、貿易交渉や経済外交を工夫していれば。資源封鎖に追い込まれずにすんだかもしれません。

当時の日本では軍部が非常に強い権限を持ち、政府が軍の意思をコントロールできない構造だったため、外交的妥協が難しかったと思います。アメリカによる石油・鉄鋼の全面禁輸は、日本にとって「生きるか死ぬか」の問題だったので、和平よりも先に「資源確保」が優先されたのではないかと思います。
また、当時の日本国内では「対米戦争もやむなし」という意識が高まっており、開戦に一定の国民的指示があったことも無視できないと思います。

総合すると、戦争回避は非常に困難だったと言えると思います。

1945年8月、広島と長崎に原子爆弾が投下され同月に日本は無条件降服しました。

下記動画において、太平洋戦争がなぜ起こり、日本にとっていかに悲惨な戦争であったかわかります。是非、動画をご覧ください。

第2章 1945年から1991年 終戦による復興から「成長の時代」へと進んでいきます。

焼け野原となった日本は、そこから世界有数の経済大国へのし上がります。「経済成長の時代」です。
1947年、日本国憲法が制定され、天皇の象徴化、基本的人権の尊重、戦争放棄(第九条) など民主的な国家体制へ移行することとなりました。
1947年 復興金融公庫が設立され、戦争で大きな被害を受けた産業やインフラの復興のため、重要な役割を果たしました。
1949年 アメリカの経済顧問 ジョゼフ・ドッジの指導のもとに、日本経済を安定させるため「ドッジ・ライン」という経済改革政策を打ち出しました。
1950年から1953年 朝鮮戦争により、米軍からの特需により日本経済は回復のきっかけを得ました。

1954年 私事ですが、11月に私が誕生しました。私が誕生して現在、もう70年となります。

1956年 経済白書に「もはや戦後ではない」と書かれており、本格的な経済成長が始まっていきます。工業化、都市化が進み、自動車、家電、鉄鋼などの産業が発展します。三種の神器 (テレビ・洗濯機・冷蔵庫) が家庭に普及して行きました。

1964年 私も10歳となりました。この年、東京オリンピックが開催されました。東京オリンピックにより、高速道路、新幹線などインフラ整備が進み、日本の国際的地位が向上して行きました。

池田内閣が「所得倍増計画」を立案。年平均7.2%の経済成長を目標とし、10年で所得を倍にする経済政策でしたが、実際はそれを上回る平均 約10%を達成しました。
1968年 国の経済規模を表する名目国内総生産 (GDP) がアメリカに次ぐ世界第2位になりました。
高度経済成長は、1973年の中東戦争で石油の値段が跳ね上がった石油ショックにより終わりました。
しかし、その後も日本人の心の中には成長神話が残り、1980年から始まったバブル経済につながっていきます。
1980年 私も26歳となりました。当時の出来事、当時の生活等を動画で振り返ってみました。

1985年、プラザ合意「ドルの適度な上昇を抑えて世界経済の均衡を取り戻す」ための国際協調策でした。結果として、日本のバブル景気やアメリカの貿易収支改善を引き起こすなど、1980年代後半の世界経済構造を揺るがす転換点となりました。
日本は円高により輸出企業が打撃を受けましたが、内需主導型へ転換して行きました。
株価と地価が急騰し、バブル景気が到来しました。 消費が多様化し、ブランド品や海外旅行、レジャーへの支出が拡大して行きました。
人々は土地や株を買いあさり地価や株価は何倍にもなりました。 実態を反映しない株価がいつまでも続くわけがなく、地価や株価は急落し始め1991年にバブル経済は終わりました。

1991年7月24日 伊予銀行と東邦相互銀行との合併の調印が行われました。
東邦相互銀行は、伊予銀行に吸収される形の合併となり、私も伊予銀行の行員となりました。当時 私は36歳でした。バブル経済も終わり、金融自由化の波にのまれ、私自身も変化し成長しなければならない時代でした。

1990年から1991年の日本の出来事、流行などの動画を載せたのでご覧下さい。

第三章 1991年から2025年まで バブル経済崩壊後「縮小の時代」へ

「失われた30年」とは、1991年から2025年頃までの日本経済に対する呼称で、バブル経済崩壊後に続いた長期的な経済停滞を指します。
1980年代後半の資産バブル (不動産・株価) の崩壊により、企業や金融機関は大量の不良債権を抱えました。銀行は貸し渋りや貸しはがしを行ない、企業活動は停滞しました。経済成長は大きく低下し、デフレ経済が始まりました。

1990年代を「失われた10年」と呼びましたが、その後も回復が進まず、2000年代、 2010年代を経ても成長が限定的であったため、「失われた20年」「30年」と延長されました。
構造的な問題として、少子高齢化の加速による労働力不足と社会保障負担の増加があります。また、イノベーションや新産業への投資の停滞があり、デフレマインド (物価が上がらないことが当たり前という心理) の定着がありました。
政府も金融緩和や公共事業等で景気刺激を図りましたが、根本的な成長戦略が不十分でした。アベノミクス (2012年以降) は一時的に株高や円安をもたらしましたが、実質賃金や地方経済の回復には限界がありました。

2020年以降は、新型コロナウイルスの影響で、さらなる経済打撃を受けました。リモートワークの普及やデジタル化推進など、新しい流れも生まれつつあります。 2025年を目前にして、ようやく「失われた時代」を脱する兆しも一部では見られ始めています。

日本は長年のデフレ経済から脱却し、現在は穏やかながらもインフレ傾向 (コストプッシュ型中心) にあります。
今後、日本が持続的健全な成長を実現するためには、多角的な対策が重要になると考えられます。
今の日本には「物価が上がっても、給料は増えない」という不安があります。このギャップを埋め、成長と分配のバランスを取り戻すことが、今後の最大の課題です。特に、持続可能なインフレ=「良いインフレ」に転換できるかが鍵となるでしょう。

最後に、動画を2件 載せました。

この2件の動画を見て、「日本をどのように変えたら良いのか」国民一人一人が考えないと、日本の未来は永遠に失われた〇〇年になってしまいます。

 

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yaruzou55

2018年1月、地方銀行を63歳にて退職。 後の人生を面白おかしく生きるために、ちょっぴり早いサンデー毎日の生活に突入。 これからの生活で気が付いたこと、感じたことを書き留めるためブログを始めることにしました。(^-^)